Original grail
「聖杯戦争の勝者はお前だ。お前は衛宮切嗣になったのだ。衛宮切嗣が負けるはずなかろう」
その神父の声は、明らかに酔っていた。それはまるで『恋する乙女』のそれだった。
Original grail
episode 1 : サクラ
桜は失われた。
臓硯に対する復讐は、桜の実の姉、遠坂が確実に行うだろう。遠坂を怒らせたのだ。臓硯の死は絶対だ。俺ごときが介入しても、かえって邪魔なだけだろう。
いや、結局自分は桜を殺した。
「いいのね、わたしが桜を殺しても」
そう言う遠坂を止めなかった。肯定してしまった。その意味では臓硯も自分も変わらない。桜を苦しめただけで終わった。今までの桜も、これからの桜も救えずに。
「おこがましいか・・・」
自分の両手を眺める。長年の鍛錬による無数の傷痕。弓をひくうちにずいぶんと分厚くなった手の皮。男らしくごつごつと節くれ立った指。何て甘い手なのだろう。
共に戦うと言い、正義の味方たることを誓った。その結果はどうだ。キャスターをセイバーに殺させた。桜も遠坂に殺させた。そして残ったのは、自分の手も汚さずに理想だけ唱える小僧ひとり。なんて醜さだろう。
と、俺のその左手がつかまれた。言峰だった。いつの間に礼拝室へ戻ってきたのか。
「・・・まだ用か。遠坂はどうした」
「見当たらん。間桐桜の遺体もだ。凛が自分で処理したがったのだろう」
「そうかよ」
腕を振り払おうとしたが、神父に握られた手首は、万力で締め付けられたかのように動かなかった。この男、神父服の下にどれだけの筋肉を隠しているのか。一瞬、ゾッとした。
「なんで・・・!」
「忘れぬうちにと思ってな・・・お前に一つ良い物をやろう。何、邪魔にはならんものだ」
言葉と同時に、手の甲に耐え難いほどの痛みが走る。
「ぐっ・・・!?」
咄嗟に振り払うと、神父はまるで最初から手など差し出していなかったかのように、後ろ手を組み、こちらへと、例のまるで目の笑っていない微笑を向けていた。
「言峰っ、どういうつもりだ!」
左手は酸を浴びたように、ひりついた痛みを訴えてきている。この分では皮膚が焼けただれているかもしれない。上からきつく抑えつけていた右手をそっと外し、痛みの中心を見る・・・。
「うっ!?」
瞬時、時が止まった。
「それ」を被っていた右手の下から、こぼれ出でる朱い輝き。形は変われども、それはまぎれもなく「あの」聖痕。
『問おう。貴方が私のマスターか?』
セイバーとの絆。全ての始まり。俺はこの兆しによって彼女と契約し、マスターとなった。
そして竜洞寺での戦闘で彼女を失った時、輝きをなくし、確かに失ったはずの証。
令呪・・・。
今、俺の手に輝くものは、形は違えど確かに聖杯戦争のマスターのみが持つコマンドスペル。令呪だった。
「お、オレの令呪は消えたはずだ。言峰、オレに何をした?」
「私も今回の聖杯戦争におけるマスターだと、前に話したろう。私のランサーには二度令呪を使用したが、最後の一度を使う前にランサーは倒された」
「それはもう聞いた」
「ゆえに、私にはひとつ、令呪が残っていた。聖杯戦争のマスターたる資格のな。それをお前に移植した。元々私の得意とするのは心霊手術だ。聖杯戦争の監査役として『戦いから降りた』マスターから令呪を引き剥がす役目も負っていた。まさか令呪を失ったマスターに移植する機会が来るとは、さすがに想像の範囲外だったが」
そうだ。この男は公平な審判を装い、裏では自分もマスターとして、サーヴァント・ランサーを操っていた。現に俺は二度もランサーに殺されかけた。この男は信用できない。さっきだって桜を本気で救おうとして、今は俺に、戦う術として令呪をくれた・・・。
あ、れ・・・?
この男はいったい、なんなんだ・・・?
「とはいえ・・・間桐桜の虫を取り除くためにほとんど全ての魔術刻印を使い、今またお前に施した移植で最後の刻印も使い切った。もう令呪の移植は不可能だな」
「・・・何故そこまでして俺に肩入れする」
俺の声は枯れていた。この男が、理解できない。今されたことが自分にとって良いことなのか悪いことなのかも判別出来なかった。
「お前が勝つと予言した手前だ。虚言にされては困るからな。それに、令呪もなしに聖杯戦争もあるまい。戦うには必要なものだ」
「俺は遠坂とは戦わない。イリヤとだって・・・」
「今のお前はそう言うだろう。だが、正義の味方となった衛宮士郎はそう言わん。その時にその令呪を見て納得すればいい。『ああ、だから』と」
俺は先程言峰が、「聖杯の正体を知れば必ずお前は凛と戦う」
そう口にしたのを思いだした。
「聖杯ってなんなんだ。あらゆる願いを叶えるための道具じゃないのか?」
「私にもわからん」
「ふざけるな。監査役だと今言った」
「いや、今回の聖杯戦争は今までとは趣が違う・・・違ったと言うべきか。間桐桜の死亡によって方向修正されたとはいえ、元の形に戻ったとは言い難い。今の聖杯がどのようなものか答える術は私にない」
桜の死、という言葉に、心が微かにふるえた。それで、言峰を問いつめる気力が萎えてしまった。何て不様なのだろう。心を鉄にすると。正義の味方を貫き通すと決めた時、覚悟したはずなのに。まだ悲しむ資格があると思っているのか俺は。
「さて令呪を持った以上、もはやお前は凛にとっては単なる競合者に過ぎん。ここに凛が戻ってこないうちに、立ち去った方が賢明だろう」
つまりは、「用は済んだ。早く出て行け」というわけか。
俺はのろのろと立ち上がった。言峰の言葉に従ったわけじゃない。
ただ、ここからは一刻も早く立ち去りたかった。
扉へと手をかけた俺の背に、言峰の言葉がムチのようにしなる。
「ああ、一つ言い忘れた。お前の屋敷の土蔵。中を調べたことはあるか?」
「オレが使ってるんだ。当たり前だろう」
「そうではない。調べたことはあるのか?」
「・・・」
「その様子ではないようだな」
「オレの家に何がある」
「いや、つまらん興味だ。衛宮切嗣は工房に残したものがあるのかとな。捨ておいて構わん」
それはつまり、「家に戻り次第、土蔵を調べろ」という神父の命令に他ならなかった。
「ではまた会おう衛宮士郎。次は聖杯戦争の勝者として」
ゾンビのように遅々とした歩みで、家まで戻る。幸いにしてバーサーカーの襲撃もアサシンの暗殺もなかった。いや、別にもういい。今この時に殺されるならそれも構わなかった。疲れた。無力なまま殺されるのが、今の自分にはふさわしかろう。
玄関を開ける。電気をつける。家の中の空気は冷たかった。誰もいない。「ただいま」と、出迎えるものはいない。
当然だ。藤ねぇは残業でしばらく来ないと言っていたし、セイバーはもういないし、桜は・・・桜は・・・。
『先輩、おかえりなさい。遅かったんで、夕ご飯は支度しておきました。今日はちょっとがんばっちゃいました』
「う・・・」
嗚咽がこみあげてきた。悲しむ資格なんてないのに。自分が殺そうとさえしたくせに。 だけど。
『優しいんですね、先輩は』
「うっ・・・うぐっ」
桜がこの家に来てからの一年。過ごしてきた日々があまりにも暖かくて。もうそれが戻らないとわかって。
『先輩になら、いいです』
「うあぁあああああ!」
俺は泣いた。泣くしかなかった。セイバーも桜もいなくなった。戦いは続いていて、俺はまだ戦う術を持っている。だけどどうしていいかなんて考えつかない。ただ、今、悲しいだけだった。資格がなくたって、悲しくて悲しくてしかたなかった。
どうして、俺は、大事な人ばかりなくすんだろう。
涙を止めることも出来ず、うずくまっていたオレは、
ジリリリリ・・・!
「・・・? 警報が鳴ってる?」
警報の発動は、屋敷の結界への侵入者、その存在を示す。一体誰が?
涙の残る瞳を背後に向けた瞬間。
烈風が俺を押し倒した。
「うっ!?」
渾身の力でもあらがえぬほどの圧力と重み。堅いものが胸板を突いている感触。床に打ち付けた頭が、やや遅れて烈風の正体を認める。
「ら、ライダー!? お前、ライダーか!?」
そう、それは確かに桜のサーヴァント・ライダーだった。
馬乗りになったライダー。そして、俺の喉元に突きつけられた杭のような短剣。。
「・・・桜は死にました」
驚く俺の上で、ライダーはぽつりと漏らした。それで、この状況の意味がわかった。
桜を殺したのは確かに俺と遠坂だ。しかし、遠坂にはアーチャーが健在。となればまず戦力らしい戦力のない俺へと復讐に来たというわけか。
俺はニコリと笑った。何とはなしにうれしかった。桜の死によってマスターとサーヴァントの契約は解除されている。今のライダーにとって桜はただの「元」マスターだ。無関係なはずなのに、彼女は桜のために戦っている。理由は他にないだろう。彼女も桜のことが好きだったのだ。
そんな彼女に裁かれるなら、それが一番の気がした。
「・・・」
だが、目を閉じて待ちかまえていた死は、一向に訪れなかった。
ふと不審に思ってライダーを見ると、そのバイザーは俺の左手に向いていた。
「令呪がまだある・・・」
言峰から移植された令呪を、バイザーの下、その金色の魔眼で見据えているのか。
ライダーはもう一度、「桜は死にました」とつぶやき、「だから」と続けた。
「衛宮士郎。私と契約なさい。このライダーのマスターとして」
・・・数分後、ライダーは膝をつき、俺の前へとかしづいた。
「契約は完了しましたマスター。サーヴァント、ライダー。真名メデューサ。これより貴方の僕となり、その勝利を導きましょう」
そして俺は俺のサーヴァントと共に、衛宮邸から去った。
もうここへは戻らない。この戦いが終わるまでは。
next grail...凛と決別